LOGIN「そういえば、お
緊張して、鼓動が高鳴る。だけど言わなくては── イルゼは、意を決してヨハンを真っ直ぐ見つめる。 「勝手な話で、義兄さんに申し訳なく思いますが、この療養を終えたら私……遠方の修道院に身を寄せようかと思います。自分の人生を生きたいです。人に幸せを与えたい。役に立ちたい。私、自立したいです……」 イルゼは一思いに自分の思いのままを告げた。 だが、言い切ってしまうと、張り詰めた緊張感は劇的に薄まった。 優しい義兄だ。きっと、分かってくれるに違いない。きっと大丈夫だ。 そう、思った矢先──隣からクスクスとヨハンの笑い声がこぼれた。 次第にその笑いは大笑いに変わり、イルゼは驚いて隣のヨハンを見ると、彼は瞼を擦り腹を抱えていた。しかし、そんなに面白いことを言ったつもりはないのに……。 「義兄さん?」「ああ、悪い悪い。イルゼがそんな馬鹿なこと言うと思わなかった」 馬鹿なこととは。真面目なのに。なぜ、そんなことを言うのか。 イルゼが、眉をひそめるとヨハンはまだ笑いを堪えつつイルゼを見下ろした。 「イルゼに自立なんて無理だよ。確かにイルゼは明るくなった。だけど、イルゼは〝何もできない子〟だ。いくら他の領地に行こうが、殺人犯の娘という事実は変わらない。バレればひどい虐めを受けてもおかしくない。それにあんな場所、一度入ったら出られないじゃないか。お前みたいな子がまともに人と関われるわけないだろう」 言葉は氷の礫のようだった。 ここまで辛辣な言葉は、今までに義兄から聞いたことなどない。 言葉を失ったイルゼの瞳には、たちまち分厚い水膜が張る。 「……義兄さんどうして、そんなこと言うの」「どうして? だって、イルゼは本当に何もできない子じゃないか。街の人とも関われない。他人とろくに会話もできない。だから俺がお前を傷つける者に出くわさないようにずっ
けれど、それを改まって言われたとしても、それこそ本当にどう答えて良いか分からない。 別に彼のことは嫌いではない。素直に考えても、好きな気持ちの方が強い。 彼は事実掴み所のない「変人」だが、存外正直だ。 その上、途方もない包容力がある。一緒にいることで安らぎ、妙に心が穏やかになる存在に違わなかった。 そう気づかされたのは庭園に案内されたあの日だ。 認めたくもなかったが、改めてイルゼは彼が好きなのだろう。と、自覚した。 しかし、なぜに好きと思えたかは、添い寝されたあの時、宣告通りに手を出されなかったこともあるだろう。それに、彼が仕事で呼び込んだ娼婦とそういうことになったと聞いた時の自分の反応だ。間違いなく、嫉妬心を抱いたからだ。 (きっと私、ルイを好きになり始めてる。療養が……この夏が終わらなきゃいいのにって思っちゃう。離れるのが辛くなる。手遅れになる前に忘れなきゃいけない) いくら身代わりで娼婦の息子であろうが、シュロイエの残党と囁かれても、前領主の子息に違わない。 身分差も甚だしいのだ。どんなに思ったところで実るはずもない。そんな都合良く行くわけがない。無理に決まっている。 いくら自分の気持ちに正直に生きろ、人に甘えろと言ったところで、それとこれとでは話が別だ。 そう……贅沢になってはいけない。高望みをしてはならない。 ……イルゼは自分に言い聞かせて、唇を固く閉ざした。 *** その日の夕刻、ザシャに連れられヨハンはやって来た。 養鶏業の手伝いですっかり仲良くなったのだろう。気さくな調子で二人は手を上げて挨拶すると、ザシャは「ごゆっくりねー」と、軽い調子で言って扉の前で去って行った。 ヨハンは扉を閉めると、ゆったりとイルゼに視線をやる。 「変わらず、元気そうで安心した」 ヨハンは優しく笑み、イルゼの座す
「え……盗賊をどうして」 丁度、長く薄暗い階段に差し掛かり、イルゼがぼかしつつ訊けば、彼は軽い笑いをこぼす。 「ローレライよりもう少し手前……川の中州に〝リスの塔〟って言われ関所あるの知ってる?」 確か、あまりぱっとしないクリーム色の石を積み上げた短い塔だ。 そこで船の通行料を取る。と母から聞いたことがあった。イルゼが頷くと、ミヒャエルは話を続けた。 「あの関所を襲う盗賊って結構いたもんだけど、自警団や有志で関所の警備強化したら、存外簡単に捕まえられたんだよね。だけど、それさえすり抜ける随分と小賢しいのがいてね。それがあの兄弟。まぁ、話し合いだよ。そしたら利害関係が一致した。あいつらが望む以上の対価を与えて……言い方は悪いけど、縛り付けた。それでね、使えそうだわって思って試しに雇ったら、想像以上の働きをしてくれたからねぇ。税金もよく集まるし」 ──正直、貴族の出の使用人なんかよりよく働く。それに俺だって元々、貴族育ちじゃねーから気楽。だから、イルゼがいても俺からしたら何の違和感もない。 彼はきっぱりと言い放った。 思えば、メラニーが〝利害関係〟で成り立つと言っていた言葉を改めて納得した。 しかし、そうとはいえ……。 「私、盗賊でなくとも殺人犯の娘です。領地の人にそんな娘を匿ってるだとか割れたら、間違いなく貴方が顰蹙を買います」 自分で言っていてやはり心が痛かった。だが、尤もなことだ。しかしミヒャエルは「バレやしないだろ」とすぐさま一蹴りする。 「それにさぁ。いつまでも、〝殺人犯の娘〟だの、忌まれ続けるのがおかしいと思うんだ。まぁそういう人の不幸をネタに笑い続けるの好きな奴って一定数いるのは確かだろうけどさぁ。でもイルゼは何もやってないでしょ? まぁ、肉切り包丁振り回したことに関しては、そりゃ……悪いとは思うけど」 そう言いつつも彼は
「そういえば、お義兄さんは今日もいらっしゃいます?」 その問いにイルゼはすぐに頷いた。 「ええ、夕方までにはこちらに訪れるそうです。私、そろそろ今後のことを義兄さんにしっかりと話をしようかと思います」「ああ、そうですか。是非、貴女の状態など直々にお話したいと思っていましたが、お仕事もなかなかにお忙しそうですね。自分がどうしたいかを断言することには勇気がいるでしょうが、応援しておりますよ」 優しい笑みを向けて、今一度頭を垂れた後、医師は馬車に乗り込んだ。 そうして間もなく、御者が手綱を握ると、馬車は緩やかに走り始める。中で手を振る医師にイルゼは唇を綻ばせて僅かに手を振り替えし、馬車が見えなくなると一礼した。 しかし、礼から直ろうとすれば、妙に視線を感じた。すぐに隣を見上げた途端、白銀の瞳と視線が絡まり合ったのだ。 ミヒャエルは、どことなく腑に落ちないような面を浮かべて後ろ髪を掻いている。何か言いたげだが、相変わらずによく分からない。 「どうしました?」と、とりあえず訊けば、彼は腕を組んでやれやれと首を横に振る。「修道院行きも良い選択だと思うけどさぁ。俺としては、もう城で働いちゃえば良いじゃんって思うんだけど。同じ領地なんだしさぁ。その方がヨハンだって顔出しやすいじゃん?」 ……これを言われたのはかれこれもう三度目ほどだろうか。イルゼは困却して口籠もってしまった。 つい先週。ミヒャエルに庭園を案内された後、見張り塔の中に作られた隠れ家で眠ってしまったことがあった。 夕刻に起こされて城に戻る帰り道、療養後どうするのかという話題になった。当たり前のように、修道院行きを選ぶと話したところ城に留まることを彼から提案されたのである。 領地から離れなくても良い。会おうと思えば、ヨハンにだって何時だって会える。鶏も殺さなくて良いし、胸くそ悪い義姉に会わない。養鶏業の援助や人員確保だって援助できる。〝別にイルゼ
六月中旬。夏至を越え、夏が深まりつつあった。 今年は猛暑なのだろう。まだ午前中、室内にいるにも関わらず、既に背中にじっとりと汗が滲む。 イルゼは先程やって来て正面に座したばかりの精神科医をジッと眺めていた。かれこれ彼の診察はこれで四度目だ。 別に精神異常はないが、療養の名目上とのことでミヒャエルは定期カウンセリングに彼を呼んでいた。 しかし、その内容は人生相談に近しいだろう。 初老の精神科医は相変わらず気難しそうな顔だった。 額から滲み出る汗をハンカチーフで拭い、やれやれと首を振る。顔だけ見れば、やはり近寄りがたい威圧感を覚える。 だが、イルゼに視線を向けると強ばった表情は緩やかに解けるように綻んだ。 「こうも暑いと困りますねぇ。喜ぶのは葡萄農家だけでしょう」 なぜに葡萄農家だけが喜ぶのかよく分からない。 イルゼが首を傾げると、彼はほっほと笑みをこぼして白く濁った瞳を向けた。 「葡萄は難儀な果実でしてね。最高級の葡萄酒になるには、厳しい暑さがあった方が旨みが増すそうですよ。そして初冬まで実を残したものは、中が引き締まって甘みを増すのです。これで作った葡萄酒は実に美味いのですよ。苦しい思いをするほどに、人はそれだけ優しくなれるものなので、葡萄と人の精神は少しだけ似ているように思えますね」 さすが精神科医なだけある。こうして話を繋げたのかと感心して、イルゼが深く頷くと彼はハンカチーフを置いて人の良さそうな笑みを向けた。 「イルゼさんはそれだけお優しい人間になっているのではと思いますよ。ところで、先のことはもうお決めになったのですか?」 こうも肯定されるのはムズ痒い。イルゼは戸惑いつつも頷いた。 「……この療養を終えたら、修道院に身を寄せようと考えています。先生のおっしゃる通り、私……自立したいです。義兄さんに会えなくなることはとても寂しく思いますが、一度しかない自分の人生をしっかりと歩みたいと思い
※※※ 「ルイのばか……」 消え入りそうな声が、霞がかった耳に届いた。 ミヒャエルは薄く目を開ける。 ──ルイ。今、彼女は自分をそう呼んだだろうか。 馬鹿というのは聞き捨てならないが……。 パチリと目を開き、腕の中を見ると、スゥスゥと規則正しい寝息を立てて眠るイルゼの顔が映った。 穏やかで、愛らしい寝顔。長い睫が頬に影を落とし、唇が僅かに開いて、どこかまだ幼い少女の面影を残している。 昨晩、魘されていた彼女を心配して部屋に行ったときに寝顔を見たが、寝ていても彼女は本当に天使のよう。愛らしいと思ってしまった。 まして表情が豊かになったことから尚更にそう感じるのかもしれないが。 ほんのり微笑まれると、鼓動が高鳴り幸せに包まれる。 しかし、ルイと……。 呼ばれた名を心の中で呟いた途端、背中に鋭い疼きが走った。 視界が歪み、やがて暗転する。 ──こことは別の、見張り塔。北側の、冷たい石の部屋。 父から受けた拷問に等しい虐待が、ふと脳裏に浮かぶ。 鞭の音が耳に残り、皮膚が裂ける感触が蘇る。鼻腔に立ち込める血の匂い。真っ赤に焼けた鉄と滴る汗。自分の皮膚が焦げる異臭……。 喘ぐような息をして、悲鳴をあげて、大粒の涙をこぼして耐えるしかできなかった惨めな子どもだった自分の姿が浮かび上がる。 ──父は一度も、本当の名を呼んだことがない。否、この城では誰も呼んでくれなかった。 忌々しい。汚らわしい。なぜ本妻の息子、ミヒャエルが死ぬのだ。死ぬのはお前が良かった。穢らわしいシュロイエの残党が。本当に厄災の瞳だと。 虐待と一緒に日々投げつけられる言葉は、毒のように心を蝕んだ。 だったら、愛人など作らなければ良かった。自分を作らなければ良かった。 どうして自分がこんな目に遭わなくてはならない。 そうは思ったけれど







